雑記

Amazon Primeで最近見た「亜人ちゃんは語りたい」について。

原作は既読。当時は幻想動物が現実にいたら、みたいな作品が立て続けに発表されていた時期で、自分もその手の作品には鉱脈があると気付かされ、本屋で見つけてはジャケ買いしていた。本作品は漫画的には妙にアクが強く、女性キャラの可愛らしさに比べて男性キャラのぎこちなさ(意図しているかはともかく)と、時折現れる独特の間とつっかえ感が忘れがたい味になっていて、ちょっとライトノベルの香りがする苦手な部分を覆い隠していた。

よく考えてみればアニメ作品として素材は一級品な感じ。アニメ的な彩色が生える絵であることは単行本の表紙でもわかっているし、登場人物も絞られている。おそらく原作もちょっと困っているであろう「お話」の展開も盛り込む必要のないタイミングだし、実はテーマ的に美味しい部分は既に語られている状況だ。この作品は亜人の性質を借りて思春期の悩みや成長を文字通り戯画化したものであり、更に反転して亜人の伝承の根源を実在する亜人の性質から社会学的に考察するもので、この2つの手法をぐるぐると回転させるように推進していく。で、お決まりなのだがそれらのある意味お堅いとされるであろうテーマを実在の亜人少女たちのある種間抜けな悩みとして可愛らしく見せていく。

で、その一級品の素材を特に飾らずに、どちらかというとちょっと泣かし成分多めで薄く味付けをしたのがアニメ版となる。味付けが少ないことは、原作に感じた妙なひっかかりが(原作本が今は荷物に埋もれているので具体的に示せない)、本作品にも感じられたからだ。が、実はアニメ版を見ていて気付かされたのが、本編の物語としての進め方の難しさだ。先程も本作品は泣かし成分多めだと書いたが、つまりは主観的な描写を濃密にしたり、不穏な展開によってこの世界や生活、関係性を揺らがしにかかるような、いわゆる物語的な推進力のことだ。原作は妙な間や客観性(というか主観がほぼコメディ要素)によって有耶無耶にされているが、正直このような「物語」としての展開は似合わない作品だと改めて感じてしまった。別に泣かし成分全てが悪いわけではなかったのだが、どうも物語的な歯車が動き始める予感がすると居心地が悪い。

なので、個人的には「語りたい」から「学びたい」を抽出した流れのまま進むと嬉しいのだが、どうなるのだろうか。正直、民俗学社会学の方向を掘り下げていく方が作者の資質にもあっていそうなのだが。(SF的な資質があるかどうかは今のところ微妙だ)といいながら、最新刊を買っていながらまだ読んでいないことを思い出し、どうやって発掘しようか悩んでいる。

ついでにアニメに関してだがOPをもうちょっとなんとかならないだろうかと思った。ミト(クラムボン)による楽曲なので出来に関しては申し分ないのだが、別にこの作品でなくても問題ない感じ。ここ10年以上、サビ前に若干強引なブレイクがあってド派手に転調して泣かせにかかるテンプレート(この辺をもっと音楽理論を元に共通点を見つけられたらいいのだが...)がすっかり定着しているので、この辺が何か変わっていればもっと加点できるのになあ。EDにも似たようなことが言える。あ、OPアニメはテンプレとアイデアがうまく混ざって気持ちいいです。

で、ちょっとだけ原作を読みなおした結果、過度に主観を入れ替えてコメディを構築しているのに気づく。もしかするとこの流れを整理した結果、コメディ的な路線を維持できずに泣き路線へと舵を切らざるを得なかったのかもなと思った。