Ubuntu 18.04へ

メインマシンの Ubuntuを16.04 から 18.04 に移行した。18.04.1 が出てから移行しようとは考えていたのでタイミングの問題だったのだが実はナイトシフトモード(夜になるとディスプレイの色から青成分をカットする機能)を使いたかったからだ。最近、どうも眠れない状態が続き、一応はメインマシンも使ってみようと思ったという単純なきっかけだった。

で、一応移行してからの諸々をメモしておく。

動画サイトで頻繁に読み込みが止まる事象が発生したので、FireFoxからChromeに戻ってみた。のだが、Chromeでも同じ状況が発生。ffmpegなどのdecodeのバックエンドの問題だろうと思っていたが、developer tool でモニタリングしていると、どうも session絡みの notifyというかcallbackがエラーになっていた。色々と触っている間に、session情報が適切ではない状態になってしまった可能性もある。しかし、これが原因というわけでもなさそうで、logout/loginしても症状は改善しなかった。というわけで戻り損ではあったのだが、どうも動画サイトを見る時にはそれなりに無視できない差があり、Chrome の方が低負荷だ。逆にFireFoxに移行したきっかけは新バージョンを試したかったのとメモリ使用量で見ると今度は FireFoxの方が有利だからで、早い話がどっち(メモリ/CPU)の方を気にしているか、という自分なりの気持ちの変化でしかない。この読み込みがとまる現象に関しては、(同じ原因かどうかは別として)過去にも発生していたので何とか対策を講じたいところなのだが。

Unity/XからGNOME/Xになったわけだが、今の所は大きな問題は無い。しかし、まだまだ過渡期というか、洗練されていない箇所は多い。

あと、起動時のbluetoothの認識がちょっと不安定で、マウスの認識が行われないことが多々ある。この辺はちょっと気になるところだ。

Mcomixがrepositoryから消えて、snapの方に登録されていた。これはどうも一時的な措置のようだ。Pythonの古いライブラリに依存していたために削除されたのだが、forkしたかなにかでソフト側に対応が行われたようだ。

気付いたこと

最近というか数カ月ほど前なのだが、Frictionの「Dumb Numb(1990)」は日本のある時期のAlternative、90年代中頃のいわゆる「ジャンク」的な音楽が勃興した時代に、多くのバンドが青写真にしたのではないかと気付いた。

譬えば初期の「有」は、かなりそのまんまな楽曲もある。「具体(1994)」の「Face, Face, Face, Face」の間奏部などは「Gapping」の引用に聞こえるし、全体的な雰囲気はかなり近い。The Mad Capsule Market'sの「SPEAK!!!!(1992)」収録「システム・エラー」は「Big-S」の雰囲気がある。「DUMB NUMB」はライブ盤なのでスタジオ盤の原曲があるわけだが、あまりそちらの印象は感じない。

25年ぶり2回目

ずいぶん長く探していたCompilation「noise forest」を買った。最悪、海外からの購入も考えていたので国内で見つかったのは幸いだった。

この作品を初めて聞いたのはおそらく 1993年の夏(1992かもしれない)。そしてそれはノイズ初体験でもあった。このCDと同日に聞いた(と記憶している)Masonnaの「血まみれのアンヌ(Mademoiselle Anne Sanglante Ou Notre Nymphomanie Auréolé)」に打ちのめされてノイズへのめり込むことになる。

このコンピはかつて大阪に存在した「Soleil」というレコード店が出したもののようだ。参加アーティストはNoise Forest (CD, Compilation) | Discogsで、当時の日本ノイズ界の一線級と新進気鋭のアーティストで固められており、非常に豪華。当時のいわゆるジャパノイズの雰囲気を知るには持って来い。アーティスト毎の収録時間が長めなのも嬉しい。

で、久しぶりに聞いた感想なのなのだが、「完全に音楽だ」。「血まみれのアンヌ」は今聞いても素晴らしくノイズなのだが、本コンピはジャパノイズの振れ幅の大きさを垣間見ることが出来る。もちろん、当時聞いた時はそんな事は微塵も思わずに、ただひたすらショックを受けただけだったのだが。

カミングアウト

「LOVE サバイバー」が80'sサウンドの中では一番理想形の音だと思っているという事実は、カミングアウトと呼ぶにふさわしい。

DX7系というか FM音源系に聞こえるゴキゴキしたベース、ほぼバスドラとスネアだけのスクエアなリズムの上に散らばった謎SEパーカッション(もちろんそれ以外にも使われる謎SE)、スネアを連打するだけのフィル、ぶった切り系のソロパート。DNAに染み込みます。

ちなみに海外版では歌だけでなく何故かオケも別バージョンであり(つまり元トラックを使えなかったので再録?)、こちらはちゃんとハットを刻んでいたりします。でも、それが不要だと感じる自分もいます。

Ubuntu flavor 試食会

長い間、使わずに放置していた Thinkpad X121e。ちょっと熱を持ちやすい感じで使わなくなってしまったのだが、一応 i3プロセッサで 2 cores / 4 threads というそれなりの性能のマシン。液晶がHDなのが問題だが、老眼には優しい。

そこで、現状の Ubuntu を試す実験場と割りきって、色々なflavorを試し食いしてみた。基本的に Out of the box の状態で動作すること、既知の情報や標準のGUIでカスタマイズ出来ることを条件とする。

最新版。デフォルトで Wayland セッション、Gnome 環境というかなり実験的な構成。X.org セッションや Unity(機能制限版)使用も出来る。Intel GPUなので、Wayland自体はほぼ問題なし、なのだがちょっと古いハードウェアなので負荷はちょっと高め。Gnome shellはまだ慣れない。18.04 も来るので早めに慣れないといかんなあ。

結局、Waylandではちょっと動作に不安のある箇所があり、X.org では何故かタッチパッドが無効化出来ない(コマンドラインからは出来るのだが)ので、他のものを模索することに。

そう悪くはないと思ったが、設定などが複雑怪奇。カスタマイズ性は高いのだが過去の歴史を全て背負った感じ。でもまあ、常用しても大丈夫かなーと思っていたら、fctixのパネルを触るとUIがフリーズするという致命的な問題が。灰色の無地ウインドウが出て、マウスは動くがどこも触れず何もアクティブにならない。触らなければいいのだが、面倒なので次へ。

見た目はスタイリッシュ。しかし、意外と設定などはとっちらかっている。まあ、悪くはない。しかし、CtrlとCapsを入れ替えることができず。これさえクリアできれば、使ってもいいなと思ったのだが。

負荷が高めなのは予想通り。しかし、ちょっと過渡期である無印よりはましか? とにかく久しぶりのKDEを試用中。

雑記

Amazon Primeで最近見た「亜人ちゃんは語りたい」について。

原作は既読。当時は幻想動物が現実にいたら、みたいな作品が立て続けに発表されていた時期で、自分もその手の作品には鉱脈があると気付かされ、本屋で見つけてはジャケ買いしていた。本作品は漫画的には妙にアクが強く、女性キャラの可愛らしさに比べて男性キャラのぎこちなさ(意図しているかはともかく)と、時折現れる独特の間とつっかえ感が忘れがたい味になっていて、ちょっとライトノベルの香りがする苦手な部分を覆い隠していた。

よく考えてみればアニメ作品として素材は一級品な感じ。アニメ的な彩色が生える絵であることは単行本の表紙でもわかっているし、登場人物も絞られている。おそらく原作もちょっと困っているであろう「お話」の展開も盛り込む必要のないタイミングだし、実はテーマ的に美味しい部分は既に語られている状況だ。この作品は亜人の性質を借りて思春期の悩みや成長を文字通り戯画化したものであり、更に反転して亜人の伝承の根源を実在する亜人の性質から社会学的に考察するもので、この2つの手法をぐるぐると回転させるように推進していく。で、お決まりなのだがそれらのある意味お堅いとされるであろうテーマを実在の亜人少女たちのある種間抜けな悩みとして可愛らしく見せていく。

で、その一級品の素材を特に飾らずに、どちらかというとちょっと泣かし成分多めで薄く味付けをしたのがアニメ版となる。味付けが少ないことは、原作に感じた妙なひっかかりが(原作本が今は荷物に埋もれているので具体的に示せない)、本作品にも感じられたからだ。が、実はアニメ版を見ていて気付かされたのが、本編の物語としての進め方の難しさだ。先程も本作品は泣かし成分多めだと書いたが、つまりは主観的な描写を濃密にしたり、不穏な展開によってこの世界や生活、関係性を揺らがしにかかるような、いわゆる物語的な推進力のことだ。原作は妙な間や客観性(というか主観がほぼコメディ要素)によって有耶無耶にされているが、正直このような「物語」としての展開は似合わない作品だと改めて感じてしまった。別に泣かし成分全てが悪いわけではなかったのだが、どうも物語的な歯車が動き始める予感がすると居心地が悪い。

なので、個人的には「語りたい」から「学びたい」を抽出した流れのまま進むと嬉しいのだが、どうなるのだろうか。正直、民俗学社会学の方向を掘り下げていく方が作者の資質にもあっていそうなのだが。(SF的な資質があるかどうかは今のところ微妙だ)といいながら、最新刊を買っていながらまだ読んでいないことを思い出し、どうやって発掘しようか悩んでいる。

ついでにアニメに関してだがOPをもうちょっとなんとかならないだろうかと思った。ミト(クラムボン)による楽曲なので出来に関しては申し分ないのだが、別にこの作品でなくても問題ない感じ。ここ10年以上、サビ前に若干強引なブレイクがあってド派手に転調して泣かせにかかるテンプレート(この辺をもっと音楽理論を元に共通点を見つけられたらいいのだが...)がすっかり定着しているので、この辺が何か変わっていればもっと加点できるのになあ。EDにも似たようなことが言える。あ、OPアニメはテンプレとアイデアがうまく混ざって気持ちいいです。

で、ちょっとだけ原作を読みなおした結果、過度に主観を入れ替えてコメディを構築しているのに気づく。もしかするとこの流れを整理した結果、コメディ的な路線を維持できずに泣き路線へと舵を切らざるを得なかったのかもなと思った。

SOFT BALLET は本当に早すぎたのか

たとえば動画サイトなどでSOFT BALLETの話が出た時に、良く「早すぎた」という言葉を目にする。もちろん印象でしか無いのだが、確かにSOFT BALLETは大きくブレイクすることは無かったし、今でもコアなファンが一定数居ることを鑑みるに、そのような言葉で修飾しやすい、というのはあるだろう。

しかし、本当に早すぎたのだろうか。というより、ここで一度日本の音楽ジャーナリズムの悪しき習性の様なものに触れてみる。自分がSOFT BALLETに関する雑誌の記事を読んで、彼らの音楽が「まんま Depeche Mode であること」を教えてくれるものに遭遇した覚えがないのだ。これは、知っていてそうしたのだろうか、それとも知らなかったのだろうか。どちらにしても問題である。推測では自分の観測範囲では後者の方が多い気がする。それが間違いであったとしても、何故か日本の(一部の)音楽ジャーナリストは、「似すぎているアーティストを参照せずに、少し遠くても自分が推したいものを参照する」事が多い、と自分は妄想している。まあ、SOFT BALLETDepeche Modeを引き合いに出すのはあまりにもそのまんますぎるから敢えて、とか、言わんでもわかるでしょ的な感じだったのかもしれない。(または自分の目が完全に節穴か)

実はここまで脱線しておいて、既に答えは出ている。DepecheMode は何故か日本では海外での人気とは程遠い知名度であったし、それは今でも変わらない。そして SOFT BALLET は、特に森岡氏の楽曲と遠藤氏の声は(特に「愛と平和」までは)ほぼDepeche Modeだ。つまり早すぎたのではない、日本では受けないのだ。

これでは余りにも救いがないし、書き散らしのメモだとしても荒すぎるので、もうちょっと補足を。

Depeche Mode日本支部の双璧が Cutemen である。Picorinの声はそれほど渋くはなく、CMJKのトラックは実はそれほどDepeche Modeしてないかもしれず、どっちかというと当時のハウスなのだろうか。少なくともSOFT BALLETよりもかなりポップだったにも関わらず、人気は後塵を拝していたように思う。より尖っていたほうが人気が出たのは嬉しいことだ。(Cutemenも好きだが)